コロナ禍真っ只中、40代ど真ん中のブラック会社からの退職

昨年末退職しました。

そして先日、ようやく再就職する事ができました。

その間実に約半年。

今回はその過程をざっくりと記載していきたいと思います。

 

こんな時期になぜ退職したのか、退職に至るまでの経緯

突然の部署変更

2020年8月、すぐに収束するのか、それともまだまだ長期戦になるのか。

日本がコロナで混乱していて緊急事態宣言やらなんやらでパニクリ始めた時期だった。

 

当時経理をしていた自分は今後の見通しで役員と激しくぶつかった。

内容は約30人も居るパートを全員休ませ雇用調整助成金をフルに申請する。

パートに支払う給与より雇用調整助成金の方が金額が多いためその分会社に収益が上がるからとの理由だ。

これは大中企業の雇用保険加入者の平均給与から助成率を算定するって言う計算式の盲点をついたもので、

恐らく他の企業でも用いたところはあると思われる。

 

だが、現場(営業)に聞き取りの結果、売上は意外と下がらないだろうとの事だった。

会社はサービス業ではあったが、飲食店や観光業とは違う形態だったのでほぼ影響を受けない見通しだった。

 

しかし、役員はパートは全員休ませるの一辺倒で聞く耳持たない状況だった。

上記した補助金収入がおいしいため、パートを全休させ、

みなし残業で雇っている正社員を馬車馬の如く走らせる気マンマンだったのである。

 

“現場の人数が足りない!”

 

そう訴え続けていたら、

 

“良い機会だからお前が行け!”

 

と半ばパワハラ的な人事異動で現場にトバされた。

 

全く進まない業務改革

元々は20名近くパートが回していた部署を自分と7名の社員で回すことになった。

7名は入社1~4年目の若いフレッシュな顔ぶれだ。

うちの部署は大変だけど毎日笑顔をモットーにみんなで頑張ろうと団結した。

 

だが、現実はパートじゃないから拘束時間は長いとは言え人数は半分以下である。

しかも、パートは10年同じ仕事をやってきたベテランも居たわけで。

 

取りあえず、絶対にやるべき事と省略すべき事、他部署にて手伝ってもらうことを洗い出し業務に取り掛かった。

幸い、自分のやり方に賛同してくれる人や、見るに見かねた人達が手伝ってくれるようになり業務ははかどっていた。

定時帰りは出来ないものの、多少の残業で乗り切れてはいた。

 

すると、それをヨシとしない隣の部署が“業務整理”と銘打って業務をどんどん回してきた。

言い分は毎回

“もともとはそちらの部署の仕事だからね”

だ。

 

確かに元々はこちらの部署の業務だったかもしれない。

だが、それはパートが20人居ての業務だったわけで、捌いているとは言え毎日残業が前提でだ。

今は前がどの部署の仕事だったとかではなく会社の仕事として業務を行って行くべきではないのか?

みなし残業の会社なんで若い子にこれ以上残業しろとも言いたくなかった。

が、それは全く通用しなかった。

 

こちらがどれだけ業務改善を行っても、次から次へと隣の部署から仕事が来る。

更にはついに、

“前のやり方と違う!”

とまで言い出してきた。

 

そしてとうとうある日うちの部署からミスが出た。

その原因は自分が

“省略していい”

って言った手順のせいだと問題になった。

 

同じ部署の子達はみんなそれが直接的な原因でない事は分かっていた。

しかし、役員含め自分のせいにして終わらせる空気になっていた。

 

それ以来部下の子達はみんな

 

“こんな時、どんな顔をしたらいいのか分からないの”

 

と言うような白目で仕事をする様になった。

自分も生活があるし毎日

 

“逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ”

 

と繰り返しながら仕事をしていた。

 

賞与が追い打ちをかける

その日は賞与の支給日だった。

 

“ここの部署は最近なにかと問題が多いから・・・・・・、現段階の評価としてはこれ位です”

 

支給時にこの様なセリフ付で渡された。

 

この会社の評価制度が名ばかりで結局は役員の好き嫌いで賞与が増減するなど

長年経理として見てきているので知っている。

 

自分は経理もまだ兼務していたので年末調整の関係で全従業員の賞与を確認できた。

同僚はおろか部下よりも低い賞与。

 

もう自分は会社から必要とされていない人間なんだな。

 

そう確信した瞬間だった。

 

また、一部の自分の見方と思われている部下も相場よりも減額されていた。

もう申し訳ない気持ちで一杯になった。

 

そして鬱になる

以前は平日週に2回ランニングをして週末はロードバイクに乗ったりして運動をしていた。

が、秋口の11月の中旬頃から仕事が忙しくなりだしたのもあったが、全く走りたくなくなった。

ケガが原因ではなくて全く走らない日が一ヶ月続いたのは5年ぶりの事だった。

 

酒がなくても全く困らない人間だったのに毎晩晩酌をする様になった。

ひどい時にはリビングでそのまま寝て朝から慌てて風呂に入って出勤する日もあった。

 

だんだんと会社に行くのが億劫になってきた。

理由は特にないけど、もう行くのが苦痛になって来ていた。

 

が、生活はある。

頑張って毎日塾に通って勉強している子供が居る。

父、負ける訳にはいかない。

 

負けるもんか!

 

そう思って毎日出勤していたある12月の朝。

ふと無意識に会社で一番仲の良かった子の前で、

 

“もう死にたいよ”

 

と呟いてしまった。

 

 

“最近いつもの笑顔が全くないよ、君もう鬱だよ”

 

そう言われはっとした。

 

会社辞める想像したら涙が出た

その日の帰り、初めて会社を辞める想像をした。

今までは全く想像すらしなかった。

 

残業は多いが給料は良い、完全週休二日制、辞めてこれ以上の条件に巡り合える訳がないと思っていた。

歯を食いしばって頑張るのが当たり前、コロナが終わればなんとかなると思っていた。

 

が、コロナは収まる兆しを見せず、それなのに仕事は全く減らなかった。

それどころか増える一方だった。

一旦リフレッシュする為に有休すら取れそうにない状態だった。

 

家族の為、塾にまで行って頑張っている長男の為、頑張らないと。

もしここで逃げたら残された部下の負担は更に増す。

更にコロナ禍の今、再就職先なんてあるのか?

 

色んな事が頭の中を駆け巡る。

 

でも・・・・・・もう持たん!

 

辞めるって言えたらどんなに楽だろう。

必要とされていない会社にこのまま居座ってどうするんだろう。

 

そう考えたら動けなかった。

車の中に5時間も居た。

気づけば夜中の2時になっていた。

 

そして決心した。

 

生きていればなんとかなる。

死ぬ気になればまだ頑張れる。

 

明日からまた笑顔で過ごそう!

 

笑顔を取り戻すために退職

自分自身、全く笑えない日々が続いていた。

 

翌日、部下のみんなに謝って退職の意思を伝えた。

数人は恐らくその様な決断をすると思っていたらしい。

 

“絶対に間違っている、自分が役員に直訴してきます”

 

って言ってくれる部下もいた。

自分の下で働いてくれていた人達は認めてくれていた!

それだけで心底うれしかった。

 

その翌日、役員に伝えた。

2月までは出ると言ったが、キリが良いから年末までの出勤で良いとの事だった。

 

 

こうしてコロナ禍真っ只中の12月、退職したのでした。

 

その後、予想通り再就職まで長い道のりが待っていました。

 

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